ひなげしの花―項羽と虞姫―



天下は秦の始皇帝が亡くなり、再び動乱の時期を迎えていた。

絶対的君主がいなくなると、途端に広大な領地は統制力を失う。

掌握出来ず各地のあちらこちらで、造反の炎が上がった。

造反軍はまたたく間に決起軍と呼称が変化し、やがて楚(項羽)と漢(劉邦)の二大勢力
に絞られるようになった。

そしていま、この二大勢力は二世皇帝のいる関中を目指していた。

先に到着した方が関中王を名乗り、天下の覇権を取る。

もっとも二大勢力といっても、楚の項羽の怒涛の戦い振りは漢の劉邦の比ではなかった。


男盛りの美丈夫は精悍な顔つきを鬼の形相に変えて、戦(いくさ)をすれば連戦連勝す
でにその名を知らぬ武将はいない。

片や劉邦は連戦連敗、年も当時の寿命からすればいつ死んでもおかしくない老将であっ
た。

では何故、連戦連敗の劉邦が項羽と天下を決するまでに生き残ったのか。

参謀に張良がいたからである。



張良は常々主君の劉邦に負け方を説いていた。

―戦(いくさ)は、あの戦好きに任せておけば良いのです。危ないと思えば逃げれば宜し
い。
九十九回負けても最後の一回で勝利すれば良いのです。御身のみ、大事になさいま
せ。兵力など、いつでも調達出来ますゆえ―

劉邦はふん≠ニ鼻を鳴らした。

主君よりずっと年若いこの色白の優男は、物言いも見てくれも一見爽やかそうだが考え
ていることはかなりえげつない。

この間も、劉邦が友軍の将から兵を借りようとするところを、

―借りたら返さなくてはならないではありませんか―

そう言って、さっさと奪い取ってしまった。


―何か?―

―・・・いや。お前が向こうの陣営に居なくて、良かったと思ってな―

―ああ、それは・・・。私が向こうの陣営に居たとしても、用を為すことはなかったでしょう


つまり項羽は人の意見は聞き入れないが、劉邦なら意のままと言うことなのだ。

このガキは相変わらず人を馬鹿にしくさってと思いつつも、許容範囲なのは今の自分が
あるからだ。

劉邦は口を思いっきりへの字に曲げながら言った。

―ならばお前は、儂(わし)に天下を取らせよ―


―御意―

即座に、張良は拱手(きょうしゅ=両手を胸の前で組むこと/敬礼)して返事をした。








そんな親子ほどの主従が天下取りの算段を話し合っている頃、項羽は連日連夜戦利品を引っ提げては寵愛する虞姫の居室を訪れていた。

「どうじゃ、この垂飾(すいしょく=水晶・紫水晶・瑪瑙等の首飾り)の輝きは。掛けて見ればよかろうに。
では、こっちの髪飾り(金細工の花形六花弁)はどうだ?・・・そら、よう似合うておる」

項羽は何一つ手に取ろうとしない虞姫にじれて、自ら武骨な手で黄金の花形髪飾りを虞姫の艶やかな黒髪に()げた。

虞姫は黙って、項羽のされるままに身を任せていた。

項羽が鏡(
青銅鏡)を手渡しても、受け取りはしても映し見ることなく床に伏せた。

虞姫の青みを帯びた瞳は幾多の宝飾よりも絹衣よりも、ただただ項羽を追っていた。


「もうよいっ!!」

さすがに腹が立ったのか項羽は怒って立ち上がると、杯の酒を一気に飲み干して帳の外の士卒を呼び入れた。

そして高価な宝飾類を蹴散らしながら、

「このガラクタを全て下げよ!」

命じるとそのまま出て行ってしまった。


虞姫は士卒が片付ける傍らで、取り立てて何事もなかったかのように小窓にもたれ月を眺めていた。

幾重にも重ねて纏っている薄絹の袖口が、ひらりひらりと吹き込む風に舞う。

虞姫はそっと、手で髪飾りを押さえた。

それはさきほど項羽が挿げてくれた黄金の花飾りだった。

真っ赤な顔で汗をいっぱい掻きながら、慣れない手つきで奮闘する姿は昔とちっとも変っていない。

「籍ちゃん・・・」

虞姫の呟く声が聞こえたのか、士卒がえっ?≠ニ辺りを見回した。




遠くで馬の嘶きが聞こえる。

少しずつ近づいて来る気配に、士卒は高価な薄絹の衣を引き摺りながら大慌てで居室を後にした。

聞き損じるはずもない、馬蹄の響き。

項羽の愛馬、騅(すい)。

一刻の後、荒々しく帳の入り口が捲れ上がった。


「・・・わしが死力を尽くして勝ち取った金銀よりも、こんな物の方が良いとはのう」

項羽は手に抱えていた束を虞姫に向かって放り投げた。


時期は春。

陣営を置く野には軍馬が食む草むらが青々と広がり、その裾野には真っ赤に燃えるひなげしの花が咲き乱れていた。


束は括っていたわけではないので項羽の手から離れた瞬間、バラバラになって虞姫の周囲に散った。

散らばっている花の茎をよく見ると、切り口が綺麗に揃っている。

たぶん項羽は、剣でガサッ、ガサッと刈り取ったに違いない。

そして、やはり真っ赤な顔で汗をいっぱい掻いていた。


「くすくす・・・」

「何がおかしい!」


虞姫は散らばっているひなげしの花の一本を手に取ると、

「項王、ありがとうございます」

ようやく唇を綻ばせて、礼を言った。


項羽が愛してやまない、虞姫の笑顔。

黄金よりも宝飾よりも、野に咲く花が好きだと知っている。

知ってはいても、もうあの頃とは違うのだ。

天下に覇を唱える身となれば、花など摘んでいられるものか。


「強情者め。・・・お前は幾つになっても昔と変わらぬ」

「あなたの方こそ・・・籍ちゃん」


項羽は、やにわに虞姫を引き寄せた。

「その名を申すな」

熱い胸板から、鼓動の高鳴りが聴こえる。

項羽は虞姫の幾重にも重なった絹衣の袖口を捲り上げた。

柔肌に彫られた小さな刺青のひなげしの花。

「この花が、お前に引き合わせてくれた」

「私の身はもはや項王、あなたにしかありません」


熱い抱擁。

交わす口づけ・・・。

だがしかし、戦乱の世は項羽を休ませてはくれなかった。


突然沸き起こったざわめきの声に、帳が揺れた。

項羽の形相が一変する。

剣を取り、外していた帯鉤(たいこう=帯を締める金具/バックル)を締め直して外へ向かった。


「何事かっ!!」

項羽付き衛兵が平伏しながら、震える声で伝言を申し述べた。


「は・・はい!たったいま!いま・・・りゅ・・劉邦が、関中に入城したとの情報が参りました!」




項羽が愛馬(騅)に跨り、戦へと向かった後。

小窓から差し込む月の光が、真っ赤なひなげしの花の中で眠る虞姫の姿を照らしていた。

夜風は花びらを揺らし、現の夢(うつつのゆめ=夢のように儚い現実)が虞姫を必ずあの日に帰す。






ずっと昔の春の日。


―この花、お前の腕の刺青と同じだ―

野原の花畑で、項羽が髪に飾ってくれた赤いひなげしの花。

―ありがとう、籍ちゃん―

眩しく見つめる少年に、少女は躊躇いながら問うてみた。


―ねぇ・・・私、きれい?―

―・・・知らねっ―







【余談】

その1 

この後項羽の楚軍も関中に入ります。


劉邦は先に手に入れていたものの(関中の領地や財宝等)そっくり項羽に明け渡します。

劉邦は無駄な戦はしないのです。

それでもまだ疑って掛かる項羽に、謝罪を申し込みます。

それが鴻門の会です。

ここでは、タカ派(劉邦暗殺)とハト派(劉邦擁護)の激しい攻防があります。

項羽は范増(タカ派)の意見を聞き入れず、劉邦を逃がしてしまいます。

范増は失意の内に亡くなり、参謀を失った項羽の楚軍は次第に劉邦の漢軍と形勢が逆転して行きます。

そしてついに垓下(がいか=項羽が最後に戦った地)で包囲され、四面楚歌を迎えるのです。




その2

青銅鏡の表面はツルツルに磨かれており、裏面は幾何学や鳥獣、植物など文様が施されています。
通常、展示や本・画像等で見ているのは裏面です。
どうして裏面ばかりなんだろう?と思っていましたが、ツルツルの表面を見てもちっとも面白くないからです。

確かに^^








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